ジョルジュ・バタイユの言葉で「あらゆる娼婦は人形である」というのがある。
この作品の花子を考えるうえで、この言葉を思い出した。花子は、恋愛を遊戯として
営む芸者をしていた。これを娼婦と考えるかどうか一概に言えないかもしれないが、
娼婦的であるとは言えよう。遊戯の域を越え、吉雄を愛し、待ちつづけた末に花子は
狂った。実子は、この美しい狂女を自分の擒(とりこ)にする。誰にも愛されない実子に
とって、花子は自分に変わって愛し待ちつづける、いわばStandbyであり、身代わりとして
の人形である。人形としての花子は、狂気の宝石として実子に描かれる。
それゆえに花子の身体性には、待ちつづけた時間とともに凝縮化した停滞があり、
それが人形(ひとがた)としての空ろを宿している。花子のからだは、文字通り空(から)であり、
そこには時もなければ、音もない、真空である。そこへ、実子は吸い込まれるように惹きつけ
られる。ここで考えられるのは、実子は花子を擒にしているが、真相は実子が花子の擒に
されているのではないか? 「わたしは待たない」と言いつづける実子は、じつのところは
花子に執着し、手放すまいとしている。吉雄の登場は、実子にとって悲劇ではあるが、
その悲劇は本当は、待たれた悲劇ではなかったか。吉雄が現れた時、実子は花子の呪縛
からの救いを感じたのではないだろうか。「擒にする」「擒にされる」「待つ」「待たない」
これらのキーワードは、三島のパラドックスを読み解くための重要なヒントになる。
それではいったい「待つ」というのは、どういうことだろう? 待つの本質は何だろう。
それは「待たない」ではないだろうか。
待つ、待ちつづける、果てしもなく、甲斐もなく、時間をやりすごし、待ちつづける先にあるもの。
待つという行為の最終形は、待たないではないだろうか。「待たない待つ」、何ものをも望まず、
ただ待つということだけに純化された状態。
この劇の終幕に現れるのは、実子と花子の「待たない待つ」世界ではないか。
待たない実子と待つ花子は、究極のところで同じ地平に立ったのである。
それは人生の終局に最も近しい世界である。
そして、ふたりの姿はきっと祈りにも似た形をとるだろう。なぜならあらゆる宗教は、
あるかどうか分からないものを、待ちつづけることに他ならないからである。
■スタッフ
演 出 長野 和文
美 術 李 建隆
照 明 大野 道乃
音 響 高沼 薫
■キャスト
実子 鬼頭 理沙
花子 三上 歩
吉雄 三ヶ島拓馬
◆助 成
国際交流基金